カタカナ英語でいいんじゃない?
= 通じる発音イロハニホヘト =




Can I have...? (~をください) は「ケナヤブ
Do you have...? (~はありますか?) は「ジュヤブ
Do you want to...? (~したいですか?) は「ジュワナ
I want you to... (~してください) は「アイワニュル
Do you mind if I...? (~してもよいですか?) は「ジュマインデファイ
Can you take our picture? (シャッターを押してください?) は「ケニュテイカワペクチョ

そして、なんと・・・                                  
.

What do you think about it?
(どう思う?)は「悪酔いチンコ暴れ*注」で通じる!


*注より正確には「ワルユーテンカバウレ」とカタカナ置換します



なぜ、カタカナで英語を表記するのか


渡米カウンターパンチ
 アメリカに渡ってちょうど一年が経った。生まれてはじめの海外生活。期待と不安が入り混じった、いや、厳密にいえば、5%の期待と95%の不安を胸に抱きニューヨークに降り立った、あのなかば非現実的な感覚は今でも忘れられない。
 日本で携わっていた脳科学の道をさらに究めるために、私はコロンビア大学へと向かったのだ。むろん仕事としての研究を鍛錬するのが純粋な目的である。
 そんな私の前に立ちはだかったのは、他ではない、言語の壁だった。
 研究室に到着したのはよいものの、相手の言っていることがまったく理解できないのだ。それどころか、自分の話している英語も相手に通じないのに驚いた。正しい文法で文章を組み立て、場面に応じた適切な英単語を使っているにもかかわらず、アメリカ人には聞き取ってもらえないのだ。これは受験英語しか勉強してこなかった私には大きなショックであった。

 思い返してみれば以前から英語はけっして得意なほうでなかった。学生時代には英語はテストの総合順位の足を引っ張る教科であったし、受験でもいかに失点しないかをもっとも苦心する科目であった。実用英語能力検定はいまでも四級のままだし、TOEFLやTOEICは一度も受験したことがない。ましてや英会話スクールに通おうなんて考えたことさえないというのが一年前までの私である。
 そんな人間がいきなりアメリカで生活を始めて、最先端の脳研究を展開しようなどとは、いま考えてみたら無謀な計画にほかならなかった。
 翌日から生活を安定させるためにマンハッタン中を走り回る。仕事とは関係のない一般の世界が、研究棟の外には広がっている。しかし、状況はまったく変わらなかった。買い物はうまくできない。地下鉄の乗り方もわからない。注文しても希望の料理が出てこない。道を訊ねても通じない。
 アパートの契約、電気・ガスの開通、電話回線の開設、テレビの契約、銀行口座の申請。「飛び込めばなんとかなるだろう」という、楽観的な憶測は見事にうらぎられ、プライドも完全に崩れてしまった。

 こうして私の異国生活サバイバルが始まった。毎日が試行錯誤の連続だった。日本から持ってきた多数の英語教材を毎晩のように読みあさり勉強に励む。忘れていた単語を思い出し、英会話の口語表現を暗記し、英文法を磨く。ただただひたすらに努力を続ける毎日。
 しかし、目に見える進歩は得られなかった。半年たっても相変わらずで、英語でのコミュニケーションができずにいた。
 そんなある日、ふと気づいたことがあった。大きな発見であった。これがこのホームページの主題である。つまり「開き直り」だ。
 詳しく述べる前に、そもそもなぜ日本人は英語が苦手なのかを考えてみたい。


カタカナ英語
 研究をしていて大きな発見があると、われわれ科学者は学術論文として学界に発表にする。ふつう論文は英語で書く。その理由は、世界の標準語が英語だからというだけでなく、英語で書かれた論文でないと成果を成果として認めてもらえないという風潮があるからである。実際に、ノーベル賞級の発見をしたのに、それが日本語の論文だったために受賞候補にあがるチャンスを逃してしまった科学者が過去にいる。
 そんなわけで私も英語で論文を書くことを余儀なくされている。英語圏の研究者に後れをとるハンディキャップだ。しかし、これは日本人だけの問題ではない。なぜなら、フランス人でもドイツ人でも中国人でも皆、英語で論文を書かねばならないからである。しかし、面白い事実がある。
 英語の論文を雑誌に載せるときには、その雑誌ごとに規定がある。つまり、総文字数の制限や、どんなスタイルで書かなければいけないかなどといった制約である。規定を読むと、多くの雑誌で次のようなことが書かれている。

  日本人の著者の方へ
    英語のネイティブな人に文章をチェックしてもらってから
    論文を投稿してください。


 もちろん、これは日本人だけが読む規定コーナーではない。世界中の研究者に向けて書かれたページだ。にもかかわらず、日本人向けにこうした一文がわざわざ付け加えられている。そのくらい日本人の英語下手は世界中で有名なのだ。
 書く英語だけではない。話す英語も同じである。
 先に私の体験として「話した英語が通じない」ことを書いた。これは誇張でない。おそらく英米に渡った多くの日本人も同様な思いをしているだろう。もちろん理由は一つ。日本人独特のナマりやアクセントがあまりにもひどいからである。そう、カタカナ英語なのだ。
 私たちの話す英語は、英語圏の国々では「ジャングリッシュ」と呼ばれている。ジャパニーズ(日本語)とイングリッシュ(英語)の合成語だろうと思う。つまり「あなたの英語と私たちの英語は別の言語ですよ」という皮肉なのだ。
 もちろんジャングリッシュは彼らには通じない。ジャングリッシュで話しかけられた英米人は、そもそも英語で声をかけられていることに気づかないという。そして「よく聞いてみると日本語は意外と英語に似ているようだ」と勘違いするらしい。そのくらい日本人の発音は正しい英語からかけ離れているというわけだ。
 私が思うに日本人の発音が英米人に通じない原因は三つある。

   1.発音数の差
   2.無母音声の有無
   3.推測言語と技巧言語

の三点である。説明していこう。


想像力の言語
 まず第1点目、発音数の違い。これは日本人が英語を学ぶうえで決定的な障害となる問題である。
 有名な例は「L」と「R」という子音であろう。日本語には「L」も「R」も存在しない。そこで、たとえば「La」と「Ra」を表すのに、耳で聞いた感じがもっとも近い「ラ」というカタカナが使われる。こうした例は多数ある。

 「Bi」「Vi」      →「ビ」
 「Fu」「Hu」     →「フ」
 「U」 「Wu」     →「ウ」
 「Si」「Shi」「Thi」 →「シ」
 「Di」「Ji」「Zi」   →「ジ」


 こんな具合に、本来ならば異なる発音なのに、日本語ではその区別ができない子音がたくさん存在するのだ。
 母音に関しても日本語はハワイ語に続く少なさだ。「bat」も「but」も日本語では「バット」と書くしかない。しかし厳密には、その両者とも日本語で言うところの「バ」とは異なる。
 「ball」も「bowl」の区別も日本人には難しいだろう。英語には二重母音というさらにやっかいな発音があるのだ。「lady」や「only」だってしばしば書かれるように「レディー」や「オンリー」ではない。どちらかと言えば「レイディ」と「オウンリ」と書いた方がより本当の発音に近い。
 ともかく、英語にはカタカナでは表記できない音声がたくさんあり、それが英語の習得の大きな障壁になっているのだ。これが第1の理由。

 第2点の理由もまた、発音の根本的な相違点である。英語には子音だけで音をなす部分がしばしば含まれている。
 たとえば、日本では「circle」を「サークル」と表す。つまり「サ・ア・ク・ル」と四音節である。しかし本来の英語の「circle」は「sɜːkl」と二音節で発音される。日本語で言うところの二文字単語(猿や柵)と同じスピードで発音されるのだ。最後の「cle(クル)」の部分を日本人が発音すると、どうしても「ku-lu」とそれぞれに母音が入ってしまう。しかし英米人は舌をうまく使って「kl」と発音する。そこには母音はない。
 子音が単独で存在するときの発音は、頭で理解しているつもりでも日本人にはなかなか難しいものだ。そんな舌の使い方など日本語にはないからだ。
 つまるところ、日本語という言語は、発音数が少ないのがその特徴であって、それゆえに英語の発音を日本語では表すことができない。それが英語を目指す者にとって最大の問題なのだ。

 ただし、こう書くと日本語がまるで劣った言語のように感じられるかもしれないが、実際には日本語にはあるが英語にはないという発音も存在する。
 代表的なものは「撥音」である。英語には「ん」の発音がないのだ。よほど日本語が上手な英米人でないと「こんにちは」とは発音できない。たいていの人は「こにちは」という。そのほかには「促音(っ)」や「長音」も日本語独特の発音である。たとえば、英米人にとって、

  加工  過去  確固  格好  観光  葛根

を区別して発音することは難しい。私の名前「ゆうじ」も残念ながら「ゆじ」と発音されてしまう。
 ふたたび注意が必要である。日本人だけが得意とする発音が存在するという事実もまた、英語の学習の妨げになってしまうのだ。たとえば「attack」という単語を「アタック」と発音したら間違いだ。なぜなら「ッ」という促音は英語にはない発音だからである。
 ついでに細かい点をあげるのならば、英語には、小さな「っ」だけでなく、通常の「つ」という音もない。野球中継のアナウンサーは、ヤンキース松井を「まちゅい」と連呼する。なんとも舌足らずで、かわいらしい発音ではないか。しかし、circleをサークルと発音してしまう日本人のことを、まさに英米人は「まるで赤ん坊のように稚拙だ」と感じているというから、お互いあまり笑えた話ではない。

 日本人の発音が通じない三番目の理由は、日本語の発音数が少ないこと深い関係がある。発音数が少ないということは、単語の発音のバリエーションが少ないということだ。逆に言えば、一つの発音が複数の意味を持ってくるということである。
 先に「加工」の発音の例を挙げたが、「かこう」と耳で聞いて「加工」を思い浮かべるためには、前後の文脈が必要である。なぜなら「かこう」と発音する単語はほかにも多数あるからだ。

  火口  下降  書こう  河口  仮構  掻こう  花香  囲う

挙げ出せばキリがない。われわれ日本人は、数多くあるこれらの可能な単語の中から、いま耳で聞いた「かこう」という音がどれに対応しているかを逐一判断しながら会話をしているのである。「手紙をかこう」と聞けば「書こう」を思い浮かべるだろうし、「墨田川で船に乗ってかこうまでかこうした」といえば「河口まで下降した」となるだろう。
 普段はあまり気に留めていないかもしれないが、日本人はこうしたことを無意識のうちに正確に行っているのである。ためしに、次の文章を読んでいただきたい。夏目漱石の「坊ちゃん」からの抜粋である。

   きょうしははたでみるほどらくじゃないとおもった。
   じゅぎょうはひととおりすんだがまだかえれない。

 ひらがなだけで書かれた文章を黙読するのはひどく苦労する。しかし、これを声にだして読んでみると、比較的すんなり頭に入ってくるだろう。

   教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。
   授業はひと通り済んだがまだ帰れない。


 声に出して言えば、おそらく対応する漢字が脳裏に浮かんで意味がすんなりと飲み込めたはずだ。
 こうした例からもわかるように、私たちは耳から聴いた言葉の意味を、無限の組み合わせの中から的確に選び抜いて、瞬時に理解するという過程を延々とくりかえしている。想像しながら聞く。そう、日本語とは「想像力の言語」なのだ。
 もちろん、これは発音数が少ないという日本語の弱点を補うために発達させた日本人独特の能力である。したがって、英語を母国語とする人々では状況がずいぶんと異なる。


発音か文法か
 英語は豊富な発音数を誇る言語である。つまり多数の単語をその発音によって言い分けることができる。実際、英語は同じ発音を使って異なる意味を表すことが日本語に比べれば少ないのだ。
 英語のスピーチを聞いたことがある人ならばわかると思うが、彼らが話すときには、喉から出す「有声音」以外に、舌や唇や鼻をつかった「shシュ」「chチッ」「tsツッ」などという乾燥した音を出しているのが頻繁に聞こえるだろう。日本人にとって、あの音は単なる雑音にすぎないのだが、彼らはそれをも利用して単語を言い分けているのである。たとえば「close」と「cloths」を区別するためにはそうした子音を正確に利用できなければいけないのだ。まさに英語とは「発声技巧の言語」なのである。
 結局、英語の場合、音が発せられて空気を伝わる時にはすでに音表が細かく分化されているため、聞き手はただ聞こえたままを理解すればよいことになる。この意味で、英語は「話し手」の発声能力に依存した言語であるといえる。一方、日本語は「聞き手」の想像力を頼りに会話をする。相手任せの言語である。まさにこの相違点こそが問題なのだ。
 日本人は英語を話していても、ついつい日本語を話すときのように、相手に適切な「想像力」を要求してしまう。たとえば「food」も「hood」も日本語の発音では「フード」である。しかし、私たちが英米人に向かって「フード」といえば「hood」以外にありえないのだ。文脈上「food」であっても、彼らには「hood」としてしか認識できないのである。

 9年前、観光でニューヨークを訪れたときのこと。自由の女神を船上から見ようとフェリー乗り場に行く計画を立てた。タクシーをつかまえ「ferry port」と告げると、運転手はなんの躊躇もなく車を走らせ、閑散とした「heliport(ヘリコプター置き場)」へと私を連れて行った。日本人の感覚からすれば、観光ガイドブックを片手に持った私を、人一人いない軍用ヘリコプター場に連れて行くのはどう考えてもおかしい。しかし、彼にとって私の発音は疑問を挟み込む余地もなく「ヘリ」でしかあり得なかったのだ。私は自分の英語力を情けないと感じるのと同時に、どうしてアメリカ人は融通が利かないのだろうと不思議に思った。

 しかし、彼らを責めることはできない。なぜなら、英語のなかで育った彼らは幼少の頃から想像力を働かせて言葉を聞くという訓練をしてきていないからである。それは優劣の問題ではなく、単に文化の違いである。英米人に「私はferryを意図している」ことを類推してくれるよう期待することは、「LとRを識別する」ことを日本人に要求するくらい酷なことなのだ。
 ただし、彼らがまったく類推のできない人種なのかというと、けっしてそう言うわけではない。実際、発音のミスとは異なり、文法のミスには英米人は寛容である。少しくらい単語の順番をまちがえても、冠詞や前置詞を付け忘れても、時制を取りちがえても、文脈から意味を察知してくれるだろう。実際、彼らだって、たとえば幼い子供などは「I is John」のような文法のミスを日常的に犯すのである。
 ところが発音の推察力については、相手の水準にひどく依存してくる。一般に、知識レベルの高い人ほど、また非英米人に多く接している人ほど、発音のミスを修正しながら聞き取ってくれる傾向があるようだ。実際、レストランよりも定食屋、都会よりも田舎にいくほど、日本人の英語は通じにくくなってしまう。

 というわけで、初心者が英語を伝えたいと思ったときに、もっとも気を付けなければならない問題は、いかに文法が正しいかということや、いかに表現が適切かということよりも、いかに発音が正しいかという点にかかってくる。極言すれば「英語が下手であるとは、発音が下手なことである」とさえ言えるのだ。
 ここまで問題点が明確ならば、それに対する解答は簡単だろう。そうなのだ。発音を修正すればそれで済むことなのだ。
 しかし、そこには一筋縄ではいかない問題がある。その理由を語るためには脳の生理を正しく理解する必要がある。


努力は報われない!?
 脳は言うまでもなく、人間の行動や意識を統率する最高中枢機関である。脳の中には1000億もの神経細胞が詰まっていて、それらが適切なときに適切な情報処理をすることによって、人間の感覚や行動が決定される。私たちは感じたり、考えたり、判断したりしているが、それは「私」が行っているというよりも、脳という装置が実行してるといったほうが的確だ。自我意識や自己感覚さえも脳が作り上げているである。
 たとえば、あなたは今このホームページを読んでいる。この紙面にある活字を目のレンズを通して眺めている。網膜の神経細胞が、光の情報を大脳皮質に送信し、その情報に基づいてあなたの脳は文字を認識している。当然、あなたはそこに活字があることを疑いもしない。しかし、よく考えてみていただきたい。モニターや文字は本当にあなたの目の前にあるのだろうか。
 多くの人は、モノは自分の頭の外にあって、それを目で見たり手で触ったりして感知していると考えている。それを常識として疑ってみたことすらないだろう。だが本当をいえば、モノは脳の外側ではなくて内側に存在しているのだ。こう書くと不思議に思う人もいるかもしれない。そういう人のためにあえて言い換えるとすればこうなる。「モノが存在していることと、モノが存在していると感じることは無関係である」。

 脳がモノの存在を認知するためには、そのモノに対応する適切な神経活動が起こる必要がある。神経が活動してはじめてモノが認知される。もし何かしらの原因で、起こるべき神経活動が脳の中で生じなかったらどうなるであろうか。もちろん、あなたはモノを認知することはできないだろう。モノが網膜に写っていたとしても、あなたの脳が反応しなければ、何も感じていないのと同じである。
 逆に、モノが存在しなくても、なんらかの方法で神経細胞を適切に活動させることができれば、あたかもそこにモノが存在するかのように感じることができる。こうした事実は脳科学の実験によって確認されている。また、大掛かりな科学実験でなくても、私たちはそれに近い経験を日常的にしているのにお気づきだろうか。夢や幻覚がそうだ。夢に現れるあの生々しいイメージは、体に外に存在しているわけでなく、まぎれもなく脳の内側で生み出されたものである。
 つまり、神経が適切に活動することが「認知」のすべてであって、それ以上でも以下でもないのだ。モノは私たちの体外に存在しているのではなく、脳の内側に存在している。これは英語を学習する上で留意しなければならない科学的な事実である。
 英語力の向上を考えるときには、しかし、もう一つの重要な脳の性質を知っておかなければいけないだろう。「可塑性」である。

 可塑性とは「臨機応変に能力が変わりうる」という意味である。自転車に乗れない人が、何度も練習をすると乗れるようになるという現象がそれだ。自転車に乗れないということは、脳の中に自転車を操縦するための神経回路がないということである。もちろん、神経装置がなければ乗れるはずがない。しかし、何度も練習をすることで、自転車専用の脳回路が作られて、いずれ自転車に乗れるようになる。このように必要に応じて機能が変化しうることが可塑性の本質である。
 脳の性質の大きな特徴は可塑性にある。可塑性は脳がコンピューターと異なる決定的なポイントなのだ。私たちは変わりゆく環境にさまざまな形で順応しながら生きている。順応という能力が動物を動物たらしめている。脳は長い進化の過程で、環境適応のための可塑性という能力を獲得したのだ。
 環境は予測できない。たとえば、生まれる前の赤ん坊は、世の中に自転車があることなど知らない。にもかかわらず自転車が与えられたときに、脳はそれに応じて自転車用の回路を作り上げることができる。自転車以外の新しいものが与えられても、脳はそれに順応するだろう。脳は何にでも対応できる能力を持っている。

 生まれたときは白紙であって、環境に応じて能力の色付けをしていく。それが脳の姿なのだ。赤ん坊が英語圏に生まれたのなら、英語を話す脳に変化するし、日本に生まれたのなら日本語の堪能な脳へと変化する。これらはすべて訓練の結果に生じる可塑性である。自転車に乗らなければ脳は変化しないし、英語に触れなければ脳は英語に順応できない。あまりにも当たり前な話である。
 ということで、私たちは明快な結論に到達する。

   英語勉強は努力あるのみだ


 なるほど、結局は、努力と根性をもって勉強することこそが重要であって、それしか道はないのだと。
 ところが、そう素直にはいかないのが脳の世界。英語は努力だけで身につくというわけではないのだ。なぜなら語学の習得には適齢期があるからだ。


英語の上達はあきらめよう!?
 自転車の練習は、40歳になってからでも、50歳になってからでも可能である。運動制御系の可塑性は年齢に無関係で、歳をとっても衰えることがない。一方、言語を習得するための可塑性は、年齢とともに急激に衰えることが知られている。
 言葉を覚える能力は、一般に8歳までがピークだと言われる。この年齢を過ぎると、新しい言語を覚える能力は急速に低下する。「9歳の壁」と呼ばれる脳の変化だ。こうした現象が脳に備わっている理由は明らかになっていない。しかし、私たちはこれを事実として受け止めなければならない。
 4~8歳までの子供は、模倣本能が旺盛で、聞いたことをそのままマネをしようとする。その結果、音声を聞き分ける能力が発達する。しかし9歳までにその能力が低下してしまう。
 たとえば、5種類の母音「あいうえお」を持つ日本語を聞いて育ったらとしたら、子供はこの5つの音を聞き分けられるようになるだろう。それに順応した専門回路が脳に組み立てられるからだ。しかし、こうして組み立てらえた回路は9歳以降ほとんど変化することはない。こうなってしまってはもはや、日本語の3倍もの母音を含む英語に対処するのはとても無理な話なのである。
 もし、あなたが幼い頃、日本語しか聞いてこなかったとしたら、英語力をネイティブ並みに高めようという期待はおそらく叶わないだろう。脳科学的にいうならば、それは不可能なのだ。もしあなたが「L」と「R」を聞き分けられなかったとしても、それはあなたの努力不足でも勉強不足でもない。私を含め、中学生になってから英語を習いはじめた人は手遅れなのである。
 年輩の方々が「d」の発声ができず、「デズニーランド」「ビルジング」と発音しているのを聞いたことがあるだろう。滑稽に聞こえるかもしれないが、笑ってはいけない。彼らの言語能力が劣っているのではなく、幼少の頃に「d」の発音を聞いてこなかっただけなのだ。まったく同様に、私たちの脳もすでに「カタカナ英語」しか話せない仕組みになっている。もはや絶望的である。
 もう一つ忘れてはならない事実がある。第二言語の習得能力は遺伝の影響が強いという点だ。一卵性双生児を用いた慎重な調査によれば、能力の70~80%は遺伝で決まっているという。残念ながら、大雑把に言えば、できる人はできる、できない人はできない、というわけだ(ちなみに、幼少時の母国語獲得力とは相関はない)。たしかに、日本に渡ってきた外国人を見ても、わずか3ヶ月で日本語がペラペラになる人もいれば、3年住んでも一向に話せない人もいる。前者は「コミュニケーションをよく取る人はやはり上達が速いね」と讃えられ、後者は「郷に入りて郷に従わないとはけしからん!日本への思い入れが足りなから日本人コミュニティに溶け込めず、日本語も上手にならないのだ」と勘違いされがちだ。習得能力は生まれながらにして非常に個人差が大きいことを忘れてはいけない。つまり、「コミュニティに溶け込めない話せない」のでなく、「上達が遅いからスムーズに溶け込めない」という逆因果もあるわけだ。
 ここで大切な点は、世間の英語テキストの多くは、英語習得の良い遺伝子を持っている人によって書かれているという事実だ。「私はこうして話せるようになった」というたぐいの経験談は「自分がどれほどよい能力を持って生まれてきたか」という自慢話を聞かされているだけで、私のように2年半もニューヨークに住んで日々努力を続けたのにもかかわらず、いまだに英会話に苦労しているに人には、ほとんど足しになる情報はない。

 先ほど「認知」とは神経活動のパターンそのものであることを説明した。外の世界が何であっても、脳が適切に活動しなければ、それは認知されないのだ。英語が聞き取れないとは、まさにこれである。「La」という空気の振動が耳に届いても、残念ながら私の脳には「La」に反応する脳回路がない。しかたなく脳は「ラ」の神経は反応させる。となれば、それは私にとってその音は「ラ」以外の何者でもないだ。本当は「La」であっても、そんなことは私に関係ない。音は脳の外側にあるのではなく、脳の内側で作られるのだから。同様に「Ra」が耳に届いたとしても、それも私にとっては同じ「ラ」である。脳とはわがままだ。事実は都合良くねじ曲げられる。外界はもはや私の感知の外である。実際の世界がどうなっているのかを脳は知ることはできないのだ。

 しかし、多少の望みがないわけでない。聞き分けるのは無理でも、発声の能力ならばうまく身につけられる可能性があるのだ。声は喉と舌と唇の協調した動きによって作られる。つまり運動神経だ。自転車が何歳になっても訓練次第で乗れるようになることから分かるように、運動能力の可塑性は大人になっても衰えない。
 つまり理論的には、訓練によって「L」と「R」を言い分けることは可能なのである。実際に、私は「B」と「V」を言い分けることができる。研究室のアメリカ人に繰り返し聞いてもらって練習したからだ。これは日本人にとって朗報であろう。
 ただし、日常生活で実際にこれを訓練することは現実的だろうか。身近にそこまで辛抱強く付き合ってくれる英米人がいるだろうか。もしあなたの身の回りにいそんな親切な友人がいればラッキーだろうが、なかなかそこまで環境が整っている人はいないだろう。
 ならばCDやテープ録音を駆使してでも独学でやるさ、と思う人は志の高い方である。しかし、ここにも重要な問題点がある。
 たしかにアメリカ人の友人が褒めてくれたように、私はBとVをうまく発音できているのかもしれない。にもかかわらず、私が発したBとVの音が、悲しいかな、自分にはまったく同じに聞こえる。私の脳回路はBとVを聞き分けられないのだ。
 耳の不自由な方が言語の発達が遅いという事実を思い出してもらえれば分かるように、聞きとれないことを習得することは非常に困難なのである。
 ジョン・レノンと結婚した小野ヨーコ、ボストンで活躍した世界的指揮者の小澤征爾、アメリカ生活の長いノーベル賞学者・利根川進。いずれも英語が堪能な方々だ。英語を使って今の地位を築き上げた、私にはまさに尊敬に値する人たちである。しかし、彼らが流暢に話す英語でさえ、実はいまだに日本語ナマりは抜けてはいない。彼らがダメだといっているのではない。それは脳科学的に言って当然だといいたいのだ。
 日本語の環境で生まれ育ったのなら、日本語ナマりは一生抜けない。ましてや英語をそこそこにしか習っていない私たちがいきなり完璧な発音で話そうなんて夢のまた夢。科学的にみても望みは薄いのだ。
 ここまで話せば、もうご理解いただけたことであろう。私たちに残された道はただ一つしかない。そう、開き直ることだ。

  べつにカタカナ英語だっていいじゃないか。理想を求めることは潔くあきらめよう。
  どうせ、私たちには発音するための脳回路がないのだから。

少なくとも私は、こう決めた瞬間、肩の荷が降りたように気分が楽になった。


カタカナ英語の秘訣
 とはいっても、ちまたでは英語を勉強する上でカタカナ英語は禁断であると言われている。実際に、私もここで書いてきたように、そのままのカタカナ英語では通じない。そこで工夫が必要になる。要するに、カタカナをどう活用するかなのだ。
 「animal」という単語がある。誰でも知っている単語だ。しかし、あなたはこれをうまく発音して英米人に通じさせることができるだろうか。私にはできる自信がある。それは渡米して以来、発音におけるある法則を見出したからだ。それについて簡単に説明したい。
 多くの日本人は「animal」を「アニマル」と発音する。この発音ではいつまで経っても通じることはない。理由は単純。割り当てるカタカナが間違っているからである。これは「エネモウ」と言わないといけないのだ。読むときには変に気取って英語ぶる必要はない。そのまま素直にカタカナを読み上げてもらえば良い。それで十分に通じる。
 「water」だってそうだ。国際線でステュワーデスに水を注文しようとして「ウォーター」と頼んでも通じなかったという経験のある方もいるだろう。これは「ウワラ」といえば難なく通じるのだ。

 にもかからず、どうして日本人はアニマルとかウォーターと発音するのだろうか。それはローマ字表記の弊害であるように思う。「アイウエオ」「カキクケコ」はヘボン式表記法で「a i u e o」「ka ki ku ke ko」などと表す。もちろん、そのこと自体にはなんの問題もない。しかし、この表記法が英語の発音に対応していると思い込んでしまったら大問題である
 確かにanimalをアニマルと読むのは、日本人の感覚的にも、またヘボン規則からも自然に思える。にもかかわらず、エネモウと読んだほうが、ネイティブそのままとは言わないものの、本当の発音に近いのだ。「エネモウ」などとは一見でたらめなカタカナが並んでいるように思えるかもしれない。しかし、そこにはちゃんとしたルールがある。この法則さえ飲み込めば、新しい単語に出会っても、通じる発音を見いだすことができるようになるであろう。
 こうした発音方法は、アメリカに渡って私が独学で身につけたものだが、歴史的に見れば、けっして新しい方法ではない。有名なところではジョン万次郎の例がある。
 幕末時代、少年であったジョン万次郎は、漁船で難破して、アメリカの捕鯨船に助けられ渡米するという数奇な運命をたどった。英語を耳で聞いて育った彼は、英語を聞こえるままに丹念にカナに置き換えていった。「掘った芋いじるな(What time is it now?)」などは彼の傑作の一つであろう。
 帰国後、万次郎は日本初の通訳士として活躍し、福沢諭吉にも英語を教えている。明治時代の人々は耳で聞いた英語そのままを学習するという方法をとっていた。「メリケン粉」や「パテ」などの言葉に当時の名残りを見いだせる。それぞれ「American」「putty」が転用されたものだ。ヘボン式が蔓延する現在の日本ならば「アメリカン」「パッティー」と書くであろう。
 実際、「アメリカン」と「メリケン」のどちらの発音が英米人に通じるかと言えば、間違いなく後者である。にもかかわらず、現代の日本は耳を重視した英語の学習を放棄してしまった。いまや学校の授業でメリケンなどと発音したら先生に叱られるのが落ちであろう。
 それだけではない。どうして、私を含めた日本人は「Shut up」だけは「シャラッ(プ)」と正しく言えるのに、「Get up」や「Sit down」は「ゲット・アップ」「シット・ダウン」と発音するのだろうか。不思議である。これはそれぞれ「ゲラッ(プ)」「セダン」と言うべきなのだ。日本人の英語に対する気の回し方は中途半端なように思える。
 私はそんなことを考えつつ、この矛盾を少しでも解消したいと思い、講談社ブルーバックスから『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則』を再出版することとなった。
 私のアメリカ留学はわずか2年3ヶ月である。英語での会話は正直言ってまだまだだ。それどころか、英会話は好きではないと断言できる。 しかし、私は英語について、とりわけ英語の発音について真剣に考えてきた。その内容を少しでも伝えることができれば幸いである。

  「自転車の乗り方を解説本で読んでも、実際に乗れるようにはならないのであって、
   何かをやる方法って、実際にやる、という経験によって培われます」
                                『海馬』(朝日出版社)より


                                                        池谷裕二





参考になるホームーページ
カタカナ英語に関するその他の有用なサイトを探してみました(ほかにもありましたらご連絡下さい)

  ▼ インスタントジャパニーズ
  ▼ 英語部奮闘記
  ▼ 笑うダジャレブック
  ▼ 通じるカタカナ英語 - 45才からの英会話







  
怖いくらい通じるカタカナ英語の法則
ネイティブも驚いた画期的英会話術
講談社ブルーバックス(\1,050)

好評を博した『魔法の発音カタカナ英語』が、
何人ものネイティブ・チェックを受けてパワーアップ。
新しい解説章と音声CDが加わって、
ブルーバックスに生まれ変わりました。


amazon.co.jpのサイトこちら

本書の内容
第0章 はじめに  
第1章 意識改革編 なぜカタカナ英語が必要なのかを概説しました。
(当サイトの内容を元に書き加えたものです)
第2章 実践編

  2-1 初級編

  2-2 応用編
現実に起こりうる英会話の場面を想定した“使える文章”の例、全55個を挙げながら、カタカナ置換のルールを解説しました。
  
掲載例
  ▼ We had a lot of snow → ウィアダラーラスノウ
  ▼ Have you been to Seattle? → ハヴュベナセアロウ
  ▼ That is not what I meant. → ダーツナーッワライメンッ
  ▼ Give me some medicine. → ギンミスメデスン
  ▼ Say it again. → セイーラゲイン
第3章 法則編 カタカナ置換“13(+4)の法則”300以上の例と共に紹介しました。
  
掲載例
  ▼ 『で』 business →
ベゼネス
  ▼ 『(母音の間の)
T行で』 activity → アクテヴェ
  ▼ 『NTTは消える』 advantage → アドヴァー
第4章 理論編 外国語の習得に関する最新の脳科学の考え方を、一般向けに丁寧に解説しました。章末には専門家向けに37報の原著による参考文献も付録。英語の先生は必読!
第5章 おわりに  

カタカナ発音法の威力、ぜひご堪能下さい






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