研究者のメディア活動について
はじめに 私は、東京大学に教員として籍を置き、専門論文以外の一般書を上梓しています。研究以外のこうした活動は「副業(または趣味)」ですから、皆さまからしばしば叱責いただきます。機会あるたびに私は立ち位置を明確にしてきましたが、その過程で、類似した叱責(ときに励まし)を繰り返しいただくことに気付きまして、本ページにまとめることにしました。 まず申し上げるべきことは、私は研究中心の生活を大切にしていることです。なぜなら、私は 1.なにより研究が好きである 2.大学に雇用されている立場である 3.国家から研究費を委託され、科学を遂行(代行)している立場である からです。 こうした理由から、私は 1.テレビやラジオへの出演や企画・監修は限られたものだけにしています 2.本や寄稿の大半は基本的に自分では書いておりません (ほとんどの場合、講義・対談・取材を文章化したものです) なぜなら、できるだけ多くの時間を研究に費やしたいからです。 講演や連載などの活動は基本的に早朝・夜・休日のみに行い、研究生活には差し支えないように、気を配っています注1。 以上の点を踏まえまして、このページでは内外から寄せられた様々な意見を紹介したいと思います(表現は変えてあります)注2。 皆さまからいただいた意見 そもそも科学は啓発すべきものか 賛成派 ▼ 最先端の科学を一般にもわかるように説明することは良いことである。国民全体の科学リテラシーの向上にもつながる。研究者全員でなくてもよいが、誰かがやらなければいけない。 ▼ 特に理系離れが進んでいる今こそ、科学の面白み・醍醐味を大いに啓蒙すべきである。日本の将来のためにも。 反対派 ▼ 科学とは難解なもの(もし簡単なものだったら専門家は必要ない)。それを一般向けに平易にかみ砕く行為は、真実の歪曲に相当する。それでは正しく科学を伝えたことにはならない。嘘を並べるだけで啓発とはおこがましい。 ▼ 「教えてやろう」というエラそうな態度がそもそもムカつく。「啓発」「啓蒙」という言葉を使うこと自体が上からの目線である。 社会への還元はどう行うきか 賛成派 ▼ 科学者は国民の税金を使って研究しているから説明責任がある。その成果(もしくは現状)を目に見える形でわかりやすく公開し、社会に還元するためのアウトリーチ活動は必要な行為である。 反対派 ▼ 大衆に媚を売った金儲けの本ではなく、研究者ならば、きちんと科学の土俵で、社会に貢献すべきである。本を書くこと自体は還元にはならないはずだ。 科学者は本業(=研究)に専念すべきか 賛成派 ▼ 研究にひどく影響を及ぼさない範囲であれば、本を書いてもよいのではないか。たとえば趣味として本を書いているのならば、それでも本を出すことを批判するのは、休日にスポーツで息抜きするのを禁止するのと同じくらい理不尽な要求なのでは。 ▼ 実験に専念したからといって、よい研究成果があがるとは限らない。 ▼ 科学コミュニケーションは、元来、科学者の任務の一環である。これが問われること自体がおかしい。 反対派 ▼ 研究以外のことに時間を費やすのは、「サイエンスの進歩」にとって損失だ。 ▼ 血税を消費して研究させてもらっているのだから、研究に専念しなければ国家や国民への造反である。 ▼ 科学は誰にでもできるものではない。科学者は選ばれしエリートである。社会は彼らに期待しているのだ。個人の金儲けに時間を費やすのは無責任である。 ▼ 人間の時間や能力は限られているのだから、本を書いたら、本業の質が落ちるのは間違いない。 ▼ 科学啓発はプロのサイエンスライターに任せればよい。自分でやろうとするのは、でしゃばりだ。 ▼ 実験科学者に必要な資質は、愚直に粘り強く実験を続ける能力であり、執筆などの副業に勤しむ姿は、周囲のやる気を削ぐ。 ▼ 本人が研究に対してまったく真剣でないことを自ら露呈しているだけ。 ▼ 要領のいいタイプの人間の存在自体が迷惑だ。 ▼ このようなサイトを立てて人から同情を集めようという魂胆が醜悪である。 現役の研究者が本を書くことに意味があるか 賛成派 ▼ 若手の現役研究者が書くからこそ新鮮な題材が提供できるのでは。 ▼ 成果がある人なら書いてもよい。 反対派 ▼ 科学の現場は20〜40代の若い研究者が主要な戦力になっている。科学者人生でもっとも大切な今こそ、研究に専念すべき時期である。貴重な時期を無駄使いするのはもったいない。 ▼ 引退したら本はいくらでも書けるはずだ。 啓発に肩書きは必要か 賛成派 ▼ 科学者(もしくは大学教官)という「肩書き」があるからこそ、本の内容も信用できる。どこの馬の骨とも分からない人が書いた科学啓発書は手に取る気にすらなれない。 反対派 ▼ 公的な立場にいるのだから肩書きにモノを言わせて金儲けするのは、職権乱用ではないか。 ▼ 公的な肩書きをもって発言すると、その発言が、組織全体を代表する発言であるかのように誤解される。これを危惧する構成員によって当人が排除される危険性がある。 ▼ 先輩者がイバる「おカタい世界」だから、メディアに出た時点で、もう将来の出世は絶たれているのでは。 科学に潜む「あいまい性」をどう伝えるべきか注3 賛成派 ▼ わかりやすさを前面にだすためには、ある程度は枝葉末節を切り捨てることが重要だと思う。 ▼ 本人の仮説やアイデアを大胆に提供するからこそスリリングになる。ありきたりなことばかり書いてある本ほど退屈なものはない。勇気ある言動は推奨されるべきだ。 反対派 ▼ まだ真偽が確定していないことを、あたかも解っているかのように本に書くのは問題のある行為だ。誤解を生みかねない。 ▼ 公に対する影響力を考えたら安易な発言は看過できない。「個人の趣味」「表現の自由」という発想は幼稚である。 ▼ どんな科学の説にも、必ず賛成意見と反対意見があり、その一方だけを取り上げたら、反対派の人は気分がよくないのでは。 ▼ 動物実験の内容をヒトにも当てはまるかのように売り込むのは論理の飛躍だ。 ▼ 中途半端なことばかり書いていたら、科学コミュニティでの信用度は落ちるだろう。ひいては科学者生命を縮めることになるのでは。 自分の専門外の知識を一般向けに説明してもよいか注3 賛成派 ▼ 出典が示されているのならば、情報の真偽が確認できるから構わない。 ▼ 教師が学校で行う授業ですら自分の専門分野の講義をするとは限らない。 ▼ あらゆる分野は相互に関連している。仮説やアイデアはそこに至る背景があるからこそ意味があるのであって、必要ならば専門外の分野でも紹介しなければ、研究の意義は伝わらないはず。 反対派 ▼ ひとつの分野ですら極めるのが難しいのだから、専門外の知識は誤解だらけにちがいない。 ▼ 他の人が苦労して得た実験データを勝手に紹介するのは剽窃だ。 ▼ 実験をした当人でないと、どこまでデータを一般化してよいかを判断できない。 注1 私のアウトリーチ活動は、実際には以下の4つの点で、研究生活のリズムに影響を与えしまっているのが反省点です。今後、よりよい対応策を考えてゆきたいと思います。 1.テレビ局や出版社などからいただく、研究とは無関係なEメールや電話に連日対処する必要がある 2.学会や教育機関から「一般向け講座」の依頼を受ける(もちろん感謝すべきところですが、その頻度が同年代の研究者よりも高いと推測しています) 3.早朝や深夜を費やすと睡眠不足になりがち。いや、本来ならば早朝・深夜・休日もすべて研究に没頭するべきか。 4.ときおり私の活動について一方的な叱責を受け、精神的に悩まされる 注2 本ページにリストした意見には誤解や不理解による赫怒が混じっているように感じられる方がおられるかもしれません。しかし、これは立場や解釈の相違に由来するものであって、したがって私は厳密な意味で反駁することができないことを申し添えたいと思います。むしろ、こいうした意見を真剣に受け止たいと考えています。 注3 この2点の問題こそがもっとも私のスタンスが定まっていない課題だと自認しています。私自身の研究成果だけでなく、ほかの研究者が発表した実験データを一般向けに紹介する機会も少なくなく、こうした科学的データを書籍等でどう伝えるべきか、どこまで汎化してよいかという判断は大変難しいところがあります。 |
|