池谷裕二は何を研究しているのか
何を目指しているのか
研究内容や研究目的を説明するのはいつでも難しいものです。
相手によって伝えるべき内容をどう表現するかが異なるからです。
ここでは4種の聞き手を想定して個別に説明を試みました。
(現時点の文章では、研究内容は各項目毎にバラバラで相互に対応していません)
1.一般向け 脳がどうのように脳自身を変化させるのかを調べている 脳はたえず変化する。子供から大人への脳の成長・発達。各人に独特な思考パターンや哲学観の変化。運動障害や認知症などの病気。これらは脳に何らかの変化が起こることで生じている。 「記憶」も同じ。覚える という行為は「知らない状態」から「知っている状態」への脳の変化である。 つまり、成長、脳高次機能、神経疾患は、すべて「変化」という視点から捉えることができる。 脳が変化すること、そして、その変化が(しばらくの間は)脳に留まること ── これを「可塑性」と呼ぶ。 私の研究テーマは「脳の可塑性の探求」である。 脳の可塑性はいつどこでどのように起こるか? ① その実態を知りたい (定性的な探求) ② その法則を知りたい (ロジックの探求) ③ そのカラクリを知りたい (メカニズムの探求) ④ それが存在することの意味を知りたい (生物学的機能の探求) ⑤ こうして得た知見を社会に有意義に還元したい これが私の目的である。ただし⑤については必ずしも私個人が遂行する必要はない。①~④を探究する過程で、自然と⑤への基盤を提供できれば幸せである。 2.生物系科学者向け 海馬の神経回路に内在する「可塑性」のメカニズム解明に向け、細胞生物学および生理学的拠点からアプローチしている 大脳辺縁系の一部である海馬体は、進化的に古い大脳皮質に属する。脳の中でもとりわけ可塑性に富んだ部位であるという意味で、次の3つの観点から魅力的である。 ① 汎用的な「可塑性」のモデルとなりうる ② 神経回路網の構造が比較的シンプルであり、実験的にアプローチが容易である ③ ある種の記憶(陳述記憶)の形成に関与する脳部位である 可塑性は便宜上「構造的可塑性」と「機能的可塑性」の二つに分けられる。前者は神経ネットワーク網の構造が変化することを指す。たとえば、成長過程で神経線維が正しい標的を選び抜いて適切なネットワークを形成すること(軸策誘導)などは構造的可塑性の典型例である。 後者は神経ネットワーク網の機能が変化することを指す。たとえば、同時に活動した神経細胞同士でシナプス結合度が強まる(ヘブの法則)などという現象は機能的可塑性の一例である。* ただし、微視的には、構造的可塑性と機能的可塑性と境界は曖昧であり、厳密には両者は分離できない。 私はこの両方のタイプの可塑性について研究している。 構造的可塑性としては苔状線維という神経線維(歯状回果粒細胞の軸索)を標本として、その軸索誘導の機構を定性的なアプローチで追跡している。苔状線維の標的の一つとして海馬CA3野の錐体細胞がある。こうした正確なネットワークが自発的に形成される、なんとも言えない不思議さは、次の2点に集約される。 つまり、数多ある周辺の神経細胞の中から ① どのようにして正しい標的を見いだすのか ② なぜ誤った標的を選択しないのか である。具体的に私が探求する課題は、 ① 軸索ルートの選定はどのようにして行われるのか ⅰ.液性誘因(or反発)因子は関与しているか ⅱ.接着分子は関与しているか ⅲ.軸索の束化の意味は何か ⅳ.軸索切断後にもとの正しい回路が再生できるのはなぜか ⅴ.軸索と樹状突起が環境内で適切に分化できるのはなぜか ⅵ.適切な場所で軸索が方向転換・停止できるのはなぜか ② 細胞の認識はどのように行われているのか ⅰ.てんかん様発火によって誤まった標的と回路を作るのはなぜか である。とりわけ、①ⅳと②ⅰは再生医療やてんかんの臨床治療にすぐに役立つ知見を提供できる可能性が高い。 機能的可塑性の研究としては、主にシナプス可塑性に注目している。シナプス可塑性とは、シナプス入力に応じて、シナプス結合度が強まったり弱まったりする現象である。これが回路レベルでどのような制御を受けているか、どのような機能的意味があるのかを追求している。シナプス可塑性の形成には「ルール(法則)」が存在するが、そのルール自体が ① シナプスの活動履歴によってどう変化するか(メタ可塑性) ② 海馬内外からの隣接シナプス活動によってどう影響を受けるか(連合性) ③ 内発活動によってどうルールが施行されるか(自己書換) を主に探求している。 また、シナプス可塑性の誘導によって ① 神経細胞の内的特性がどう変化するか ② 多シナプス経路で活動パターンがどう変化するか ③ 回路レベルで個々の神経活動の正確性がどう変化するか についても検討しており、この視点は従来の研究にはなかった新たな知見を提供できるのではないかと考えている。たとえば、②について言うのならば、従来の研究は 神経A → 神経B という、単純な単シナプス応答を研究するものが大多数であり、 神経A → 神経B → 神経C という多シナプス反応を追及したものはほとんどなかった。脳の機能は、もちろん多シナプス経路によって発揮さているから、マクロな挙動を知るためには多シナプス経路の検討は必須であると考えている(以下参照)。 3.神経生理学者向け 海馬神経ネットワーク、とりわけCA3野に存在する再帰性回路の内因特性や、苔状線維や貫通線維などの外部入力の相互作用とその可塑性を研究している 中枢神経系において、神経細胞は巨大かつ精細な「ネットワーク」を形成している。反射などの単純な運動から、思考・意識・情動といった脳の高次な活動を含めた動物の所為・行動はすべて、この神経ネットワークの活動に基づいて実行されている。こうした自明な事実があるにもかかわらず、従来の研究の多くは、ひとつひとつの神経細胞を個別に解析したり、せいぜい単シナプス伝達(つまり、わずか1ステップの神経細胞の繋がり具合)を解析する程度にとどまっており、それゆえに過去の知見は、“ネットワークから切り離された独立存在としての神経細胞”の理解を越えていない。このアプローチでは中枢神経系の挙動の全貌は解明できない。 私の研究の目的は、この意味で、シンプルである。つまり、個々の神経細胞をネットワークの中の一員と見なし、個と全体の相対関係や相互に与えうる影響を検討し、従来は見落とされがちだった「回路素子としての神経細胞」の視点から神経系を再解釈することにある。有名な「複雑系」の例を挙げるまでもなく、“個”は集団になると予想を越えた非線形挙動を示す。私の研究によって、“総体”としてのニューロンの特性が初めて明らかになると期待している。 上に述べた、 神経A → 神経B → 神経C という多シナプス経路の特殊なバージョンは、神経Aと神経Cが同一の場合である。つまり、 神経A ←→ 神経B という「再帰的」な結合モティーフである。こうした反回性回路では単純フィードフォワード回路とは異なる挙動を示すことが理論的には示されているが、実験的な証拠はまだほとんどない。海馬CA3野は脳でもっとも高密度な反回路を含んでいる領域であり、再帰型ネットワークのよい標本となる。 また、より一般的な多シナプス回路のケースとしては、 神経A → 神経B ↓ ↑ →神経C→ というフィードフォワードループが考えられる。ここでは、神経Aから出た情報が、直接神経Bに流れ込む経路と、神経Cを経由する間接経路が存在する。 したがって、① 神経Aの活動によって神経Cが発火するという“ある種”のスパイク伝達(spike transmission)を前提とするか、② Cの自発活動を考慮に入れることになる。 ①のスパイク伝達はシナプス伝達以上に確率的要素が高く、時間正確性も低いため、神経回路がどう活動の正確性(≒情報量)を保持するかを研究するための良いモデルとなりうる。と同時に、この3者フィードフォーワード系では神経Cを経由する情報迂回のために時差(delay line)が生まれる。このため独特の時間表現が可能になり、特定の情報統合や内部表象の実験モデルとなりうるのではと考察を進めている。 また②の自発活動に場合は、背景ノイズ(background synaptic noise)がA→Bのシナプス伝達に与える影響を検討することになる。そもそも神経回路はノイズ耐性があるし、また、幾つかのケースでは、回路はノイズを積極的に有効利用していることが示唆されている。これを裏付ける知見を得るための実験モデルにもなるだろう。 上記の3者フィードフォーワード系の具体例として、海馬体では、 A:嗅内野皮質第Ⅱ層錐体細胞 B:CA3野錐体細胞 C:歯状回果粒細胞 A:CA3錐体細胞 B:CA1錐体細胞 C:CA3錐体細胞 などが典型的な組み合わせとして挙げられる。 また、神経Bに抑制性インターニューロンを考えると、組み合わせのバラエティーは格段に増える。この中でも個人的に興味を惹かれるのが、 A:CA3錐体細胞 B:CA3錐体細胞 C:CA3インターニューロン A:歯状回果粒細胞 B:CA3錐体細胞 C:CA3インターニューロン A:歯状回果粒細胞 B:苔状細胞 C:歯状回インターニューロン A:苔状細胞 B:歯状回果粒細胞 C:歯状回インターニューロン などの組み合わせである。 これらの微小回路(microcircuit)の基底特性を電気生理学的に解析すると同時に、こうした基底特性がシナプス可塑性の誘導によってどう変化するのかを検討することが私の当面の課題である。 この他に、カルシウムイメージング法を用いて、スパイク活動を多数の神経細胞から同時記録することも試みている。回路に存在する細胞が、特定の入力刺激に対して、空間的、時間的な意味において、どう正確(あるいは不正確)に反応するか、そして、その反応性がどう可塑的に変動するかを追跡する。 このためには、大規模なデータを扱うための数学的手法の開発も主要な鍵を握っている。 4.哲学マニア向け 脳システムにおける“ルール”と“自己”の自発創生(またはその自己書き換え)と観察者視点における「整合性」の関係を探求している 神経システムは、それ自体では閉じた空間であり、構造的な可塑性を通じて機能生理的な状態を遷移させている。同システムは動的な内発性を有しており、外部環境からの攪乱をトリガーとして、新しい内部ダイナミクスを生み出している。 したがって、神経システムの活動状態は、外部環境と機動的に関連している。この連関において、神経システムが環境の変動に応じて相互作用的に状態変化することを一般に「行動」とよぶ。行動が“適切にみえる”方向へと変化することを「学習」とよび、不適切に見える場合は「疾患」とよぶ。 しかし、行動も学習も、神経システムの要素にとってはまったく無意味である。行動や学習は、システム外部からの描写、つまり、実験者もしくはそれを見ている観察者からの視点にすぎない。 神経システムが行っていることは、外界からの刺激をシステム内部の揺らぎに取り込んで、新たな機能状態を自発的に生み出すことであり、作動そのものには正誤の判断は含まれていない。適切か否かは、それを見ている我々の視点からの一方的で偏見的な価値基準であって、神経システムの側からは、生命体の作動に関して、その有効性があらかじめ存在しているわけではない。 新しい状態への遷移の軌道が、環境によって決定されるわけではないことには注意が必要である。ヒトの感覚や運動に関与する神経細胞(神経システムの外部接点)は1千万個ほどであるのに対し、システム内部の神経細胞(広義でのインターニューロン)はそれを遙かに凌駕する1千億個が存在する。しかも、内部結合のパターンは単純な順次経路からはほど遠く、高度に再帰的であり、さらに、常に自発的に活動している。 つまり、外部環境は神経システムの内部ダイナミクスをわずかに変化させることはできるが(Fiser et al., Nature 431: 573-578, 2004)、その状態を特定することはできない(Briggman et al., Science 307: 896-901, 2005)。「外部環境が神経システムに反応を惹起させる」などと捉えるのは、神経科学者の傲慢に起因した誤解にほかならない。 この意味で、多くの科学者が暗黙に了解している前提、つまり、「脳はいわゆる“I/O装置”である」とするは、明らかに誤りであるし、議論をすり替え真理から逃避するものである。神経システムは、環境の情報を抽出しているのでない。そうではなく、環境に潜むどんな情報が、神経システムの状況にどんな攪乱を引き起こすかを、システム個体の歴史を鑑みることで決定し、これによって特定の世界を生起させているというのが、正しい視点である。神経システムは、環境と相互にカップリングすることで、自発的に軌道(アトラクター)を生み出し、その上を遷移していくという、連続的かつ安定的な運動システムである。環境とシステムの相互作用の仕方は、過去、すなわち、環境とシステムがいかなる歴史を経験してきたかによって決まる。 これを踏まえた上で、私が研究で目指すことは次の3点である。 ① 内発的な連続遷移軌道の観察 ② タブララーサ(Tabula Rasa)からの分岐メカニズムの解明 ③ 環境からの攪乱と内部状態の変動の相互作用の特定 ④ 不安定な素子から生まれるシステム全体の安定性・恒常性の解明 ④の意図は自明であるので、以下には①②③について述べたい。①と②は本質的には独立ではないことにも注意していただきたい。 神経システムには自己組織性がある。そもそも、システムと要素は不可分であり、システムが作動することで要素が生まれ、要素が生まれることでシステムが稼働する。たとえば、次のことを考えてみればよい。海馬の神経細胞は、培養皿の中で、何日もかけて、神経回路を生み出すが、その組織は、もとの個体脳のオリジナル回路とは独立した存在であり、独自の活動様式(ルール)を獲得している。つまり、ルールによってシステムが生み出され、生み出されたシステムがまたルールを創発していくという機動的なループを形成している。神経システムが絶え間のない連続した存在であるため、「ルールの創成」と「状態の遷移」こそが、システムの内的ダイナミクスの神髄となる。 それでは、いかにして神経システムは現在の状態を生み出し、また、それを起動させることによって、いかにして次の状態を生み出しているのだろう。自発活動の内部構造は、これを解明するための鍵の一つを握っているだろう。私はCA3の再帰的回路に着目して、CA3錐体細胞の自発活動がどのようにして生成し、どのようなルールが基底に存在するかを調べている。何より重要なことは、この自発活動によって自身の構造がどう変位されるのか(どう自身が書き換えられるのか=self-rewritability)、言い換えれば、いかにして新規な状態世界が創生されるのか(ongoing plasticity)を追求することである。新規な状況で生まれた活動状態や基底ルールが、どうのようにシステムの歴史に依存しているかは、さらに引き続く、次なる自発的な内部変化を測定し、直前の状態と比較することで、部分的にではあるが特定できる(実験科学である以上、“部分的”にしかできないことに注意。かろうじて遡ることのできる歴史は、実験者が標本に初めて接した時点までである)。こうして内発的な連続遷移軌道を露礁させるというのが私の目指すところである。これが上の①で言わんとするところである。一言でいえば、「回路素子の時間的および空間的な相対ダイナミズムの探求」ということになる。モニター対象はあくまで素子(神経細胞)であり、その時間相似性(回路動態)と空間相似性(回路構造)を通じて神経システムを評価する。 神経システムの構造は、本質的にはタブララサ(Kalisman et al., PNAS 102: 880-885, 2005)であるが、実際の回路構築には相当な偏向性が認められ、典型的にカノニカル建造(Nelson, Neuron 36:19-27, 2002)である。先の培養細胞の例でも明らかなように、タブララサにある初期の神経システムは、いかようにも回路形態を選択できるわけであるが、実際にシステムが始動すると、将来への潜在的な可能性は現在の多様性に置き換えられ、この結果、システムの辿る軌道は(少なくともレトロスペクティブには)一本の線となる。その接線ベクトルは、未来の内部状態や環境との相互作用を決定しうるというという意味で、いわゆる神経システムは(狭い意味での)カオスである(Schiff et al., Nature 370: 615-620, 1994)。 自己創生が決定論的に発露されるこの循環のなかで、どのようにして、神経システムは不可逆的にタブラ・ラサから分岐し、独自の構造を構築し、それを安定的に維持しているのかというのが、②のテーマである。 私はやはり海馬のCA3領域に着目する。もっとも単純な例としては、苔状線維の標的選択性がある。苔状線維の投射は、CA3野錐体細胞の特定の部位(近位尖塔樹状突起)に限局しているだけでなく、潜在的な標的細胞が数十万もあるにも拘わらず、実際にはわずか10数個程度の標的にしか投射せず高度に選択的であって、かつ、シナプス終末はほぼ150 μm毎に分布している。つまり、苔状線維の構築はタブラ・ラーサからの乖離が顕著であるため、優れた標本になる。 また、①で述べた自発活動もまた神経システムの歴史を反映しているという意味で、タブラ・ラサからの分岐の経緯を表象している。自発活動に潜在する特定の法則(ここでいう法則とは無作為のレベルでは統計学的に説明のできない観察者視点での「秩序」を指す)を知ることは、システム全体を内的に規定しているある種の不自由さを露わにすることとなり、システムと環境の相互作用の「領域」の特定(これを観察者視点からのいうのならば行動のパターンを知ること)へとつながる。 環境からの攪乱(たとえば電気刺激)によって、システム内部がどう変動するのか、その変動が一過性なのか持続的なのかという問いも、以上と同じ視点レベルで解釈することができる。変動のパターンはシステムの歴史を反映した内部状態に依存している。内部ダイナミクスが、いかに環境と動的にカップルすることで、新たな状態を自己創造していくのか、これを実験的に検証し、(正誤とか適不適とか合目的性とか、あるいは善悪といった)鳥瞰的な“整合性”と比較することが③のテーマである。 |