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LTP ヘブの学説が提唱されると、多くの研究者が、ヘブの法則をみたすシナプス可塑性の発見を試みました。そして、ヘブの法則が提唱されてから20年余りが過ぎた1973年米国のブリスらがウサギの海馬という部位においてシナプス可塑性を発見しました2。右図にその典型的な例を載せました。1に描かれている波形は海馬での神経シナプスの反応を記録したものです。多少複雑な形をしていますが、一種の脳波だと考えて下さい。丸●で示した下向きの尖頭が実際の神経の活動を反映しています。これに高頻度の刺激(テタヌスと呼びます)を与えると、2で示した様に神経の反応が瞬時に大きくなり、しかもこれが数時間から数日も持続するのです。このシナプス可塑性はその性質から長期増強(long-term potentiation)と名付けられ、私達は通常、LTPと呼んでいます。 さてこのLTPは本当に記憶・学習の基礎メカニズムなのでしょうか。確かにLTPはヘブの法則を満足します。しかしヘブの法則は、あくまでも必要条件であって十分条件ではないのです。LTPというシナプス可塑性がヘブの法則を満たしたからといって、これが記憶の基礎メカニズムであるという保証はないわけです。しかしこの質問に対して、私達にとっては期待通りの答えが用意されています。LTPは恐らく記憶に深く関係しているでしょう。この理由を挙げてみましょう。 まずこのLTPは、脳の中の海馬という部位で観察されるということです。海馬は、人でいうとちょうど耳の奥あたりの両側に1つずつ存在して、発生学的に古い大脳辺縁系と呼ばれる部位に属しています。この海馬という部位は、記憶形成に重要な役割を演じているのですが、このことが初めて示されたのは偶然のことだったようです。米国の医師があるてんかんの患者に、治療を目的として海馬を含むその周辺の部位を破壊するという手術を施しました。これは今から40年ほど前の話です。そして手術後にはこの患者のてんかんの症状は改善されましたが、意外なことに記憶障害が生じてしまったのです3。この患者は新しいことを全く覚えられなくなってしまいました。私達はこれを「順行性健忘症」と呼んでいますが、この患者は同じ漫画を何度も楽しめたなどという話も残っているそうです。こうして記憶形成における海馬の重要性が示されたわけですが、その後海馬に関する膨大な研究によって、人や動物がものごとを覚えるときにいかに海馬が重要な役割を演じているかが明らかになってきました。LTPという現象がまさにこの海馬で観察されるという事実は、このシナプス可塑性が記憶の基礎メカニズムであるという可能性を強く支持しているといえます。 そして、さらに強い裏付けがあります。私達はしばしば、単純な迷路を用いて動物がこれを学習していく様子を観察しますが、この時、当然のようによく覚える動物からなかなか覚えない動物まで実に様々な動物に出会います。そして、これらの動物の学習能力はLTPの大きさと正の相関があることが発見されました4。つまり物覚えのよい動物は、海馬でLTPが起きやすいのですが、記憶力のよくない動物では、小さなLTPしか生じないというわけです。また実際に、動物がものを覚えるときに、学習するに従ってLTPが生じることも観察されています5。 また薬を用いた研究からも、LTPと記憶の関係を示唆する結果が多く得られています。例えばLTPの形成を阻害する薬がいくつか発見されていますが、これらの薬は一方で、動物の学習能力も著明に低下させることがわかりました6。反対に、LTPを促進する薬を動物に与えると、物覚えがよくなったりもします7。さらに現在のように極めて高度な技術が開発された世の中においては、驚くべきことが可能になりました。遺伝子操作を施すことでLTPが起きない動物を作り出すことに成功したのです。これらの動物では、見かけは正常な動物と区別ができないのですが、予想された通り、通常の動物にくらべ記憶力が劣っていました8。 このようにLTPが記憶の基礎メカニズムであるという数多くの証拠が世界中で報告されています。もちろんLTPと記憶との関連を否定する報告も多少はあります。しかしLTPのほかに、記憶の基礎をなすシナプス可塑性のよい例がないというのも、LTPと記憶の関連性を強く支持するものとなっています。少なくとも、LTPは多くの研究者によって、記憶の基礎メカニズムであると期待されているといえるでしょう。 |